p35
認可保育園の入園申し込みは年間を通して受け付けているので、市区町村の「入園案内」はいつでも入手できます。4月入園の「入園案内」は前年10月ごろに新しいものが出るのですが、それを待たず、思い立ったときに現時点のものを入手します。

p64
「探索活動」とは、乳幼児が周囲のものに興味や好奇心をもち、知ろうとする行動のことです。[…]危ないもの、多大な損失につながるものは、あらかじめ子どもの手の届かないところに遠ざけておく必要がありますが、危険のない範囲で、子どもがさまざまな「探索活動」にチャレンジできるようにすることは、実はとても大切なことなのです。

p72
そんなやりとりを重ねるうち、子どもの中で「ブーブ」という言葉は記号となり、 車がないところでも「ブーブ」の話をしたり、積み木を「ブーブ」に見立てて遊んだりすることもできるようになります。このような力を「象徴機能」と言いますが、これを獲得するのが、おおむね1歳の後半ごろと言われています。

p80
保育を選ぶ場面では「プラスアルファ」よりも「基本的なこと」ができているかどうかを重視したほうがよいということを強調したいと思います。「基本的なこと」というのは、心を通い合わせる養護や、子ども一人一人の興味・関心を生き生きとさせる教育を指します。/そもそもこれを「基本的なこと」とよぶのは正しくないかもしれません。これらを本当に実現するのは容易なことではないし、質を追求すればどこまでも広げることができるものだからです。「基本的なこと」を追求している保育を見ると、これこそ英才教育なのではないかと思うことも少なくありません。「基本的なこと」にこそ保育の質の差があらわれるのです。

p115
ドキュメンテーション、ポートフォリオ、ラーニングストーリーなどは、簡単に言えば、家庭に向けた写真入りのレポートのようなものです。

p122
とくに小さな子どもたちは、だだっ広い空間よりも、適度に区切られた空間のほうが落ち着きます。そのため、部分的に敷物を敷いたり、棚で区切ったりして、座って落ち着ける空間をつくっている園は多いでしょう。

p128
保育室や廊下などが雑然としている園は、安全への配慮が十分ではない場合もあります。

p132
5歳になってもひとり遊びはします。年齢にかかわらず、一人で集中して遊ぶ時間は大事です。

p137
保育者同士の仲がよさそうでも、保育中の会話が友だち同士のおしゃべりになっているのは困ります。お散歩で子どもの手を引いている保育者同士が、まったく関係のないおしゃべりに夢中になっていて、子どもは話しかけられることもなく黙って歩かされていたという話がSNSに上がっていたことがありましたが、専門職としての自覚が問われる場面かと思われます。

p138
保育者の言動に「あれ?」と思ったら、「わが子がこんなふうにされたらどうだろう」「私が保育されていたらどうだろう」「ここで自分が働くとしたらどうだろう」と立場を置き換えてみると、自分なりに判断ができることがあると思います。

p159
私がひとつ心配するのは、この言葉の意味の振れ幅が大きすぎることです。

p162
園で取り組んでいることに保護者が関心をもつだけでも、子どもの意欲が高まるのではないかと思います。

p164
ときどき、着替えや食事などに関して、園ではできているのに家庭ではできないということがあって保護者が悩むことがあります。保育者に相談すると、「おうちでは甘えたいのだと思います」と言われたりします。子どもは、園という社会の中で自分なりにがんばっているということかもしれません。そんなとき、家庭では子どもの甘えを受け止めるのもよいと思います。やがて、家庭でもできるようになるでしょう。

p167
子どもがもっとも緊密な関係を持っているおとなが、その子どもとの関係において暴力および屈辱を用いるとき、そのおとなは人権の軽視を実演するとともに、それが紛争を解決したり行動を変えたりするための正当な方法であるという、危険な教訓を与えている可能性があるのである。

pp176-177
園の保育に習い事的な内容を取り入れるのであれば、それが楽しい遊びとして成立していることが必要です。

p178
身につけたいものには人によって「旬」の時期があるのだと思います。英語を早くから身につけさせようとあせるあまり、子どもを「英語嫌い」にしてしまわないように気をつけることが必要です。

p182
保護者は連絡ノートに「完食しました!」と書いてあればうれしいものですが、無理強いしてまで食べさせてほしいとは思っていません。「完食ルール」をやっている園があったら、見直しが必要だと思います。

p204
現場で行われている保育について、その外形だけを見て「よい」「悪い」を評価することは困難です。「何をしているか」も大切ですが、「なぜそうしているのか」という保育の意図がより大切だからです。