[読書メモ]『役に立たない読書』
p9
ペダントリー(pedantry:学問や知識をひけらかすこと、衒学(げんがく)癖)
p14
ヒューマニティ(人間性)の根幹にかかわる本は必ず後生まで継続的に玩味(がんみ)され、そのすぐれた作品は真の意味での「古典」となります。
p25
本は買って座右に置いておかなければなりません。図書館で借りる、あるいは勝手もすぐに売ってしまったりしては、時を経てふたたび手に取る機会を得られません。/座右に置くといっても、場所的な制約はありますからすべてとはいきませんが、できるだけ本は買って置いておくのがいいと私は考えています。途中で挫折したものも含め、読んできた本を振り返ることは、自分の人生を振り返ることに他ならないのです。
p32
図書館で借りた本の知識は、しょせん「借りもの」でしかない。自分が読みたい本は、原則として買って読み、読んで良かったと感じた本は、座右に備えておくべきだという立場です。
p41
無駄買い・無駄読みになったとしても、一度開いた本はできるだけ取っておくことを勧めます。一度挫折しても、再び挑戦してみようという時が来るかもしれないからです。
p51
アマゾンのレビューに限らず、匿名の文章に価値はありません。何かものをいいたいのであれば、己の立場を明らかにして正々堂々と発言するのが道理でしょう。匿名に隠れて後ろから袈裟(けさ)がけに切り捨てるような文章は、認めるわけにはいきません。
pp51-52
たまに、書評で偉そうに罵詈雑言を浴びせる人がいますが、あれは書評の仁義にもとる。くだらないと思うなら取り上げなければいい。単に黙殺すればいいのです。ぜひ読んでほしい、とりわけ、まだあまり知られていないけれど多くの人が読んで然るべきだという本を、私は積極的に紹介したいと思っていますが、それが書評というものの本来的価値ではなかろうかと思います。
pp64-65
最近、大人の間でも読書会が広がっているようななか、ひねくれたことを言うようで恐縮ですが、なぜ「集団で本を読む」必要があるのだろうかと不思議でならないのです。
p66
読書会の一番のデメリットは、自分にとって興味も必然性もないのに、課題となった本を読まなければいけないことです。
p71
朗読で聴くのであれ、自分で手に取るのであれ、何かのきっかけで好きな本ができると、それが橋頭堡(きょうとうほ)となり、他の本へと興味が移っていく、そうやって一冊にとどまらず他の作品に自動的に派生していくのが読書の面白いところでもあります。
p72
大事なのは試行錯誤を重ねることです。極言すれば、人間は試行錯誤でしか偉くなることはできないというところがあります。
p75
貸した本は返ってきません。だから読みたい本は自分で買う、これが大原則です。
p76
「書棚は人生史である」
p93
「初版本主義」のコレクターは少なくありませんが、[…]あれは、どうしても初版本を手元に置きたいという一種の道楽です。初版本には希少性がありますが、功罪もあって、罪のひとつは誤植が多いことです。
p129
古典文学であっても、やはりできるだけ近現代文学と同じようにスラスラと、フラストレーションなく読み進めたいものだと思います。そうしないと読書が「勉強」になってしまって、楽しく玩味しつつ読む「娯楽」としての正確がほとんど失われてしまうからです。
p130
本の大きさ・重さや、字の大きさ、あるいは用紙や装訂というような物理的なことが、読書という営為にとっては相当に大切な要件
p131
新潮社の『古典集成』は、できるだけ本文から目を離さないで、スラスラと読み進めることができるようにと、最大限の工夫がしてあるので、私は一般の方の読書用としておすすめしたいと思います。
p135
全国の大学を代表する東京大学や京都大学、あるいは早稲田大学と慶応大学など、主要大学が、それぞれ「2020 年度の本学入試の古文は『枕草子』から出題します」というような、前もってのアナウンスをするという制度にしたらどうでしょうか。/そうすれば、たとえば東大が『枕草子』を出題すると告知しておけば、東大志望の人は、少なくとも『枕草子』を全巻読むに違いありません。
p145
『源氏物語』では一滴の血も流れません。流れるのは月経の血だけ。まことに平和な文学です。そのことは世界に誇るべきことだと思うのです。