[読書メモ]『フェルマーの最終定理』
p14
数学者と話をしていて驚かされたのは、彼らの話す内容の恐ろしく正確なことだった。質問をしても即座に答えが返ってくることはなく、彼らの頭の中で答えの構造が完全にできあがるまで待たされることもしばしばだった。
p15
数学の核心は証明にある。そして証明こそは、数学と科学の他の分野とをきっぱり分かつものなのだ。
p31
数学者の数学的寿命は短い。25 歳、30 歳を過ぎてからの仕事が前より良くなることはめったにない。
p32
数学においては、年齢とともに積み重なる経験などよりも、若者がもつ直感や大胆さの方が重要であるらしい。
p33
研究所内を移動するときにも仕事の話がしやすいよう、たった3階の建物だというのに、エレベーターの中にも黒板が備え付けられている。部屋という部屋はもちろん、トイレにまで黒板が置かれているのだ。
p58
科学理論を数学理論と同じレベルで完全に証明することはできない。手に入るかぎりの証拠にもとづいて、「この理論が正しい可能性はきわめて高い」と言えるだけなのだ。
p59
物理学者はたえず宇宙像を書き換えているということ__間違っていれば消しゴムで消して、もう一度はじめからやり直すということだ。
p63
現代の証明のほとんどは信じられないほど複雑で、一般人にはその道筋を追うことすらできないだろう。
p94
偉大な書物をすべてこの地に集めれば、偉大な頭脳もそれに続くに違いありません[。]
p95
数学者たちはアレクサンドリアにいながらにして、当時の世界のすべてを学ぶことができたのである。
p110
17 世紀フランスの裁判官は社交を差し控えるように言い渡されていたからである。交友関係が広ければ、友人や知人が裁判所に呼ばれたときに公正を欠く恐れがあるとされていたのだ。
p124
いかなる定理も、それを使うためにはまず厳密な証明が必要である。
pp124-125
定理こそは数学の土台である。なぜなら、いったん真であることが確立されてしまえば、その上に安心して他の定理を築くことができるからだ。
p134
ベルヌーイ家は、ヨーロッパの中でももっとも優れた8つの頭脳がたった3代のうちに輩出したという、史上最高の数学者一族である。
p136
ヨーロッパの権力者たちがやりたかったのは、難解な抽象概念を探求することではなく、数学を使って実地に役立つ問題を解決することだった。
p136
オイラーはいっときも無駄にせず、片手でゆりかごを揺らしているときでさえ、もう一方の手は証明のあらましを書いているのだった。
p137
アルゴリズムとは、特定の具体的な問題を解くために、精巧な段階的方法を作り上げることだ。
p160
数論研究者は、素数こそはあらゆる数のなかでもっとも重要な数だと考えている。なぜなら素数は、いわば数学における原子だからだ。
p167
スクランブルド・エッグを作るのは比較的簡単だが、それを元に戻すのは非常に難しい。
p174
「諸君、私教師にするのに、どうして候補者の性別が問題にされなくてはいけないのか。大学は公衆浴場ではないのだ」
p196
フェルマーの最終定理も、必要なテクニックはすべて手の届くところにそろっているのかもしれない。欠けているのは、“工夫” だけなのかも・・・・・・。
p211
20 世紀初頭のヨーロッパやアメリカには、新たな難問を解きたくてうずうずしているアマチュア問題解決人たちが何百人も生まれていた。
p230
幼くして死ぬような目にあったゲーデルは異常なほど神経質になり、その気質は一生変わることがなかった。
p252
第1次世界大戦は化学者の戦争であり、第2次世界大戦は物理学者の戦争であると言われたことがある。しかしこの数十年に公開された情報によれば、第2次世界大戦は数学者の戦争でもあったのである。
p259
ハーディはこのスキュース数のことを「なんらかの意味をもつ数学史上最大の数」と読んだ。ハーディの計算によれば、宇宙に存在する全素粒子(10^87 個)を駒に見立ててチェスをするとして、2個の素粒子を置き換えることを1手とみなすならば、組み立てうる試合の総数がおおよそスキュース数になるという。
p323
大事なのは、どれだけ考え抜けるかです。
p328
帰納法とはドミノ倒しのようなものである。
p345
ぼくに欠けているものは、ぼくが愛することのできる、心から愛することのできる人間なんだ。
p455
この意見には、コンピューターに対する被害妄想も多少は含まれているだろう。