[読書メモ]『小説家という職業』
- 読書
- 2018/02/15 Thu 11:23
p12
「ほぼすべてを消費しなければ価値の評価ができない」というのが、書物の商品としてのウィークポイントでもある。
p85
そういう批判には耐えられないという純真無垢な作者も、きっといるだろう。
p101
僕はずっと大学人だったので、けっして常識的な人間ではないけれど
p146
押井守監督のアニメ映画には、キャラクタが難解で長い台詞を話すシーンがときどきある。ファンの間では、そこが押井アニメの魅力だという。しかし、この部分だけを抽出して出版しても売れないだろう。[…]一般に、ファンが褒める部分というのは、単なる「わかりやすい特徴」にすぎない。それが魅力として「語られる」だけで、その奥に潜んでいる(仕掛けられた)本当の魅力の元は、見えないし、語れない。言葉にならないもの、簡単には伝達できないもの、なのだ。
p147
自分の新シリーズでは、シンプル、ショート、スパイシィという 3S を目指して書き始めた。
p192
小説家への道は、ただただ書くこと、それ以外にない。それが楽しいとか、苦しいとか、そんな問題ではない。小説で何がいいたいのかも、どう書けば良いのかも、どうだって良い。なんでもありだし、どうやっても良いから、とにかく書く。書くことで何が得られるのか、など二の次だ。得られることもあれば、失うこともある。ビジネスとして書くならば、できれば原稿料なり印税が得られる状況を目指すけれど、それも、書いている最中の意識にはない。ただ、自分の世界を創り、その世界の中で見たものを、素直に記すだけである。/書いた文章は、少しずつ集まって、きっとなにものかを築くだろう。幸運ならば、自分以外の人に、自分の一部が伝わるかもしれない。そして、それらはいつまでも残る。書いた人間よりも未来まで残る可能性を持っている。それだけで、充分ではないか。
pp196-197
結局は、論文も技術書も小説もエッセィもすべて、書き終わったときに感じることは、「説明不足」と「誤解の危険性」を伴う不満であり、それとバランスするのは、スポーツの汗と同じく、達成感という細(ささ)やかな満足のみ。最も辛いのは、書いている最中に自分がどんどん変化をするため、書き終わったときには、書いたことが現在の自分の感覚や意見と既にずれていることだ。本の初めと最後でもタイムラグがあって、書きたいもの、表現したいものが微妙に違っている。変化というのは、「成長」だと錯覚しているけれど、もちろん「劣化」が見せる幻想かもしれない。とにかく、自分に素直になろうとすれば、「駄目だ、もう一度書き直そう」ということになる。そして、いつまでもそれを繰り返すだろう。だから、書くことは、しかたなく変化を見送ることだ。一旦、見かけ上、止まること、といっても良い。「切り取る」といえば綺麗だが、書いている間は生きている心地がしない。