南アジア言語レッスンをやめた
南アジア言語のレッスンを受けていることをこれまでブログに書いてきた。
しかしやめることにした。
このことをブログに書いたと思っていたが、最近の体調不良やら家族が海外旅行に行ったりしてゴタゴタしていたせいか、投稿していないと気付いたので今回書いてみる。
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まずは前回レッスン以降の状況について説明しておこう。
前回レッスンは8月の半ばに受けた。その次の週のレッスン前日は、妻と息子が実家に泊まりに行っていたので時間ができた。普段なら映画でも観に行くところだが、面白そうな映画がない。そこで大学図書館に行ってレッスンに向けた勉強を3時間ほどやった。我ながら真面目が学習者だ。ポモドーロテクニックを使ったことも集中できた理由だ。
でも次の日は先生が来なかった。時間になっても来ず、20 分待った段階で先生に WhatsApp でメッセージをするも返信がない。この時点で寝坊だなと予想が付いた。以前も寝坊で遅刻してきたことがあるからだ。1時間待って来なかったので帰った。しばらくして先生からメッセージが来て、やはり寝坊したという。特に僕は怒らなかった。日本人と感覚が違う外国人と付き合うのはこういうことは起こりうることだからね。それに待っている間1時間半しっかり自習ができた(僕は 30 分早めに来ていた)。
要するに前日も含めて、その2日間は自習だけで結構勉強したということだ。自習といってもこれまでやったことの暗記が中心だ。最近は暗記が遅れていた。十分に暗記ができていないまま次のレッスンを迎えることが増えていたが、しっかり暗記に時間を取れたのはよかった。
レッスン場所の大学図書館は地下1階、2階は電源付きデスクがある。携帯電話の電波が届かないせいか人が少なく、小さい声でなら言語の発声ができる。
その次の週は先生が学会などで時間を作れなかった。
そのまた次の週は僕が体調不良でレッスンを受けられなかった。
そういう感じでレッスンを受けられない期間が1ヶ月ほど続いていた。
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事の発端はいつも通っている精神科で、先生にキツめの説教をされたことだ。説教をされたのが嫌だったというより、僕が伝えていることがちゃんと伝わっておらず、一方的に have to を強要されたのが嫌だった。間違った誤解のままごちゃごちゃ言われた。僕にとって精神科の先生は唯一本音(に近いこと)を話せる相手である。僕のことを分かってくれている人だと思ったら、分かっていなかったことに失望したのだ。
have to を強要されると生きる意欲を失う。視野が狭くなり、短絡的視点になる。
南アジア言語などという “無駄なこと” はやっている暇はない。南アジア言語なんてやめて、僕はやるべきこと(have to)をやればいいんでしょ、と考えたわけだ。
実際南アジア言語のレッスンを毎週受けていると、その準備や復習で1週間の半分はそのために時間を使う。なお以前は丸々1週間使っていたが、最近は理解度が高まり、学習法も確立してきたので効率化できて半分で済んでいた。たしかに、1週間の半分がフリーになるのは大きい。他のプロジェクトに従事できる。
そして1時間 2000 円という破格の値段でレッスンを受けさせてもらっていたが、少額とはいえ毎週そのお金を払う出費が節約できる。交通費も掛かるし。
南アジア言語の先生には「家族関係のことで心身ともストレスで(それ自体は間違いではない)、今はレッスンをやめて仕事に集中したい」と WhatsApp で伝えて、最低でも1年間はレッスンを休ませてもらうことにした。先生は大学院生で日本にあと数年いるが、本当に1年後に再びレッスンを受けるかどうかは分からないが。先生はもちろん残念がっていた。というか、熱心に勉強していたんだから突然やめると言い出して変な日本人だと思われたかもしれない。
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もともと今年は語学を頑張りたいという目標でもって、ハロー先生ドットコムを利用しネイティブから会話レッスンを受け始めた。知らない人、ましてや外国人と1対1で会い、1時間会話するなんて、以前の僕だったら「絶対の絶対に無理」なことだった。特に最初にイギリス人のレッスンを受けたときはすごく緊張した。それをやってのけたんだから、自分の成長のためにも良い経験だった。
でもやめることにした。
語学のような暗記や思考力を要する活動はメンタルヘルスに良いらしい。特に僕が勉強していた南アジア言語は超難関言語だ。たしかにストレスを感じた時に自作のフラッシュカードアプリで単語を覚えたりすると、なぜか心が落ち着いた。
でもやめることにした。
僕はフリーランスとして、そして実際は家事に追われる主夫として1日のほとんどを自宅で過ごしている。だから、毎週先生に会って話しをすることは大切な時間だった。僕の生活にはあまりにも登場人物が少なすぎる。まったく別の人と会って話をすることは大事なことだった。
でもやめることにした。
南アジア言語の先生は日本語がほとんど話せないのでレッスンは英語で受けていた。英語でその他の言語を学ぶというわけだ。南アジア言語だけでなく、英語力のブラッシュアップにのもなっていた。これまでも家で英語の音読をしていたがそれは1日 30 秒程度。でも今年になって 10 分程度やっている。何ヶ月も毎日 10 分音読を続けると、その成果を実感していた。上達を実感すれば楽しい。語学というのは本来楽しいものなのだ。
でもやめることにした。
僕は子ども時代に親に愛されていないという感覚があった。だから大人になっても親の代わりのような存在を求めてしまう癖があった。優しい包容力がある人を男女問わず好きになる。子ども時代の親からの愛情の欠如は心理的ホームベースがないのだ。自己肯定感を持てない人間になる。勇気を持って飛び出すことができず、臆病な人間になる。でも僕は悟った。自分自身が、自分のホームベースになればいいと。他者にホームベースを求めるのではなく。南アジア言語の学習は日々自分の成長を感じていた。どんどん分かることが増える。40 歳を超えているのに暗記がちゃんとできている。これは大きな自信に繋がり、それこそが確固たる自分を作ることになっていたのだ。
でもやめることにした。
南アジア言語レッスンはブログに毎回レビューを書いていた。だっておそらく、僕の人生の中でも稀に見る貴重な体験をしているからだ。先生は文化的に女性が気軽に出歩けない国の出身だ。だからこそ、その国の女性を言語レッスンを受けているなんて普通できないことだ。僕以外の日本人でも、普通体験できないことだろう。諸々の事情でレッスンを受けていることは家族には内緒にしているが、ブログに書くだけでは満足できない。精神科の先生にレッスンの話をするのが楽しかった。誰かに「聞いて聞いて」と話したくなる体験だからだ。
でもやめることにした。
以上のように、自己成長のためにも、メンタルヘルスのためにも、生活の登場人物を増やすためにも、英語を含めた語学力アップのためにも、ホームベースの構築のためにも、貴重な体験を享受するためにも、南アジア言語は僕にとって欠くことができないものだったのだ。
普通に考えてもやめる理由なんてないが、精神科の先生に「やめてやりましたよ」と言うのが目的になっている気がする。
今後は負担が少なく、時間をあまり使わない英語学習を細々と続けよう。音読と単語の暗記だけでも継続は力になる。南アジア言語と違って英語は長年やっているので、伸びしろが少なく効果を実感しづらいんだけど。
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