息子が通っているこども園は入園説明会で園長先生が「この園では挨拶を強要しない」と言っていた。僕は特にそこが気に入った。

挨拶はどの社会でも重要である。自分は敵ではないことを示す根源的なコミュニケーションツールである。

ちなみにこれ全世界共通かと思っていたら、高野秀行さんの本を読んでいて挨拶語がない言語があることを知った。

そういう例外はありつつも、基本的に挨拶はコミュニケーションの基本だ。

しかし日本の場合は少し意味合いが違う。

日本では「挨拶しないやつは殴っていい」という論理がまかり通っている。僕はこれはヤンキー的な発想だと考えている。

挨拶の背景に暴力支配があるとすれば、もはや挨拶の意味はあるだろうか。なぜおびえながら挨拶しなければいけないのか。

だからこそわざわざ挨拶を強要しない子ども園が僕は好きなんだ。

あなたは子どもに「ありがとうは?」とか「挨拶しなさい」、「いただきますは?」と強要していないだろうか。

挨拶は脅しなどなくても自然と出てくるものだ。本当にお礼を言いたいときはありがとうと言いたくなるし、相手の調子を聞きたいときは「元気?」と聞きたくなる。それは固定的な挨拶文句と同じ言い方とは限らない。

恐怖支配が背後にあると、挨拶しさえすればいいというエクスキュースとしての挨拶をする人が増える。形式的なのだ。

挨拶というのは相手のことを考えてするものだ。エクスキューズとしての挨拶は自分のためにやっている。

うちの妻は挨拶を強要するわりに大事な伝達をしてこない。相手のことを考えているなら念のため再確認の伝達をするはずだが、わざわざ僕から確認しないと言ってこない。挨拶さえしていれば何も考えなくていいなんて、ただの思考停止だ。相手のことを考えていない。

情報伝達かできない人に挨拶を強要する資格はない。

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