積ん読を正当化する言説が「読書好き」には多くある。

積ん読は僕も悪いことだとは思っていなかった。背表紙を眺めるだけでも刺激になるとか、未来の楽しみが増えるとかいろいろ考えていた。

年末年始に蔵書を電子化したと書いた。

[断捨離][読書] 自宅の蔵書をすべて自炊した1 – 読書ナリ
https://dokusho.nary.cc/2023/01/11/digitalising-the-whole-book-collection-1/

[断捨離][読書] 自宅の蔵書をすべて自炊した2 – 読書ナリ
https://dokusho.nary.cc/2023/01/12/digitalising-the-whole-book-collection-2/

電子化したのは読了済みの本だけでなく、まだ未読の積ん読も含まれている。

最近は読書量が減った。積ん読がなくなったので、本の存在を忘れてしまうのかもしれない。

あれ、積ん読があったほうがよかったのかな。

でも積ん読があること自体がストレスになり得る。そのストレスこそが読書を促すのかもしれないが、本当に積ん読があることで読書量が増えたという実感はない。

逆に「読まなきゃ」と意識的、無意識的に思うことは脳のリソースを使っていると思う。

目の前にスマートフォンが置かれているだけで意識が持っていかれて焦りやイライラを感じるらしい。それと同じで積ん読もそこにあるだけでストレスになるのではなかろうか。

積ん読の存在はあまり意味のあるストレスだとは思えない。

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