シュタイナー教育100年 | 広瀬 俊雄, 遠藤 孝夫, 池内 耕作, 広瀬 綾子 |本 | 通販 | Amazon
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わが国でシュタイナー教育は、戦前から紹介はされていたが、脚光を浴びたのは、戦後の一九七〇年代になってからである。

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思えば、シュタイナー教育は、これまで、一〇〇年の長い歳月のあいだに、世界中の数えきれないほどの多くの人びとに、生きる元気と希望と勇気を与えてきた。教育・子育ての不安や困難や危機の打開と克服に大きな力となった。

p38
シュタイナー学校では、入学段階でもそれ以降においても、学力的な選抜が一切行われない。

p41
彼・彼女らは職業生活や私生活でさまざまなことを試みるとき、また数々の誘惑を乗り越えようとするときに、内的・道徳的な羅針盤に導かれていると感じ、自身が選択した職業に、高い倫理的原則を取り入れる傾向にある。

p68
シュタイナー学校では、IT機器や情報通信技術を用いた学習を始めるのに「正しい時期」言い換えれば「ふさわしい時期」は、高学年以降であるとされ、それ以前の児童期でIT機器を用いることは適切ではないとされる。それは、児童期でIT機器や情報通信技術が用いられた場合、児童期に著しく発達する力およびその時期に特有の欲求や、育まれるべき力が阻害され、その後の発達や成長に悪影響をおよぼす可能性があるとみなされるからである。

p93
実験結果についての話し合いや解説は行われず、子どもたちは、実験の様子を文と絵で記すだけである。そこには、実験についての考察を書くのではなく、自分が見たこと感じたことを、見たまま、感じたままに表現するのである。

p98
授業は、現象を観察し記述する、そして、次の日に考察を行うという流れとなっている。

p98
予想や仮説を立てて実験を行うことを、シュタイナーは「事象の条件を人為的に作り、その条件から導かれる結果がわかった上で事実(Tatsache)を観察している」と否定する。予想・仮説を立てた実験では、現実そのものに意識が向けられず、自分が見たいものを見ようとしてしまう。それは、自分が既にもつ概念を、実験を通して読み取っているにすぎない。認識されるべきものは、観察者の内部からではなく、観察される対象の本性の内より得られなければならない。

pp98-99
「ゲーテは次のような興味ある言葉を語りました。 ――私の書いた『ゲーテの自然科学論集への序文』を読んで下さい。――われわれは外界の諸現象について判断したり、仮説を立てたりすべきではない。現象そのものが理論なのだ。現象を正しい仕方で自分に作用させるなら、現象そのものが理論を語ってくれるのだ、と彼は述べているのです」。

p99
このように「科学する力」とは、眼の前の現象と向き合うことのできる力なのである。

p101
考察を行うまでに、一日待つことで、子どもの心の内に「ふしぎだなあ」、「なぜ、あんなことが起こったのだろう」という思いがどんどん膨らむ。それはやがて、「原因を知りたい」という思いへと変わっていく。教師は、子どもの中で、経験した事実のカオスに、秩序・調和をもたらしたい、という欲求が生まれるのを待っているのだ。このように、授業は子どもの心の状態に沿った形で展開されている。/「科学する心」で大事なのは、子どもの「知りたい」、「学びたい」という思いを育てることである。それを引き起こすのは、実験を見た時の「驚き」(Staunen)であるとシュタイナーは言う。「驚き」の感情が、子どもの思考を突き動かす。

p143
教師が子どもの前に「権威者」として立つことができるためには、どうすればよいのか。そのためには、二つのことが是非とも必要である。一つは、教師が、内面をよくみがいて子どもの本性についての深く豊かな考え方・思想あるいは思いを持つことであり、もう一つはその考え方・思いを実行に移すことである。

p146
わが国の学校では、歌う活動は、「音楽」の時間で行われる。シュタイナー学校では、音楽の時間ではなく、毎日、国語、理科、算数をはじめとする主要授業の開始のときに行われる。子どもたちは、朝、毎日毎日、歌を歌い、その後に授業に入っていくのである。

p151
シュタイナー学校には、教科書はないので、子どもたちは、教師の言うことや黒板に書いた言葉を写すときは、ことのほか真剣である。

p176
教科書は、他の権威が作ってくれたものであり、その内容などについて担任は直接の責任がない。それに対し、シュタイナー学校教員は、教える内容も細かな順序も、全て自分の責任において選択し、他者の手による本や絵や写真も用いずに(六・七年生頃から資料として写真や書物を活用することはある)、自分の語りと黒板絵のみによって授業を行う。

p187
それと対になって大事なことは、内界、つまり自己への信頼感(自己肯定感)であろう。

p198
チャイムが鳴ったら児童が自動的に動くようしつけられているとか、[…]行事を形式的に持ち込んでこなすだけだとか、そういう「子どもを大人の都合に合わせる」という発想に決して与しない。

p224
食べるものだけでなく、基本的に園では何でも手作りをすることを大事にしている。人の手の持つ力を伝えたいと考えているからだ。もしかすると買ってきた方が手早く安くつくものも多いかもしれない。それでは、そのものの成り立ちを知ることはできないし、対象と幼児の関係性も深まらない。また、自分で作ったものは、壊れた時に自分で直せる。直すときにも、壊れなくするためにひと工夫を凝らすこともできる。直しながら、大事に使う。

p232
たしかにシュタイナー教育は、学校と幼稚園で行われている教育である。しかし、その導入は、家庭でも可能であり、この教育は家庭にも導入さるべき教育である。シュタイナー教育をしっかりと学び、家庭にそれをとり入れるならば、子どもを豊かさとたくましさを備えた人間に育てることができる。

p235
このいまの子どもの傾向は、子どもの遊びをみるとよく分かる。いまの子どもの遊びで激減しているのは「ままごと遊び」である。この遊びは、子どもが、小さな皿、茶わん、ミニまな板、ミニ包丁などのおもちゃを用いて食事・料理などの家庭生活のまねをして遊ぶ遊びのことであるが、かつての子どもの間ではこの遊びが盛んに行われていた。

p237
おもちゃは、少なく、そして単純で素朴なものを! これは、シュタイナー教育の大切な鉄則である。

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