[読書メモ]『愛着障害』
- 読書
- 2020/03/03 Tue 06:33
p25
求めたら応えてくれるという関係が、愛着を育むうえでの基本なのである。
p32
心の奥底で「親に認められたい」「愛されたい」という思いを引きずることになる。親に過度に気に入られようとしたり、逆に親を困らせたり反発したりするという形で、こだわり続けるのである。
p35
ナチスによるユダヤ人迫害が激しかった時代、アウシュビッツなどの強制収容所に閉じ込められた人たちは、いかにして精神の平衡を保ったか。そのために大いに助けとなったのは、愛する人のことを回想することであったと、ヴィクトール・E・フランクルは『夜と霧』で述べている。
p37
もっと複雑な反応がみられることもある。ストレスや脅威が高まったときに、愛着行動とは一見正反対な行動が引き起こされる場合である。本当はそばにいてほしい人を拒否したり、攻撃したり、無関心を装ったりするというものだ。
p43
自分がされたように相手を扱うことを無意識のうちに行っているとも言える。
p58
そんな川端少年の楽しみは、庭に生えた木斛(もっこく)の木に登って、読書をすることだったという。現実の世界が、いつどうなるかわからない寄る辺(べ)なさのなか、本の世界だけが、川端少年にとって、安全な避難場所となっていったに違いない。
p81
親の愛着スタイルが子どもに伝達されやすいということである。
p97
不安定型の愛着スタイルを生む重要な要因の一つは、親から否定的な扱いや評価を受けて育つことである。
p98
親から否定的な評価しかされなかった子どもが、親をもっと困らせるようなことをしてそれを実現することは、よくあることだが、こうしたことは、愛着障害のケースでは頻繁にみられると言ってよい。
p106
恋人や配偶者は、愛着スタイルに関して、かつて母親が及ぼした影響に匹敵するほどの大きな影響を及ぼすことがある。
p117
誰にでも愛着するというのは、特定の愛着対象をもたないという点で、誰にも愛着しないのと同じであり、実際、対人関係が移ろいやすいといった問題を呈しやすい。対人関係、こと恋愛関係において、誰に対しても同じような親しさで接すれば、トラブルやあらそいの原因になるし、信頼関係の維持も困難にする。
p122
症状となって表れた段階を「疾患」として捉えるのが、現在の診断体系であるが、最終段階を云々するだけでは、そのはるか手前から始まっている病的なプロセスを防ぐことにはならない。
p123
安定型の愛着スタイルの人が怒りを表す場合、それは建設的な目的に向けられている。相手を全否定するのではなく、問題解決のために焦点を絞ったものとして発せられる。敵意や憎しみといった個人に向けられた攻撃ではなく、問題そのものに向けられた怒りである。こうした怒りは、人間関係を壊すよりも、むしろ強化したり、問題解決を促すのに役立つ。
p124
破壊的な効果しかない怒りを「非機能的怒り」と呼ぶ
pp127-128
相手からどんなに恩恵を施されても、一度不快なことをされれば、それ以外のことは帳消しになって、相手のことを全否定してしまう。こうした対象との関係を、メラニー・クラインは「部分対象関係」と呼んだ。
p137
それまで親切にしてくれていた人たちが、彼を見る目を一変させたので、町にいづらくなり、引っ越しを余儀なくされている。
p154
不安定型愛着の人は、しばしば三枚目やオッチョコチョイや道化役を演じることで、周囲から「面白い人」「楽しい人」として受けいれられようとする。[…]人を楽しませよう、笑わせようという旺盛なサービス精神は、周囲から人気を得たり好かれたりするのに役立つことも多い。
p169
愛着障害の人のなかには、家出や放浪を繰り返す人がいる。度重なる引っ越し、旅といったものと縁が深いケースも少なくない。
p173
愛着障害を抱えた人は、しばしば親代わりの存在を求める。ずっと年上の異性が恋人や配偶者となることも珍しくない。
p181
大きな願望を抱き、自分を特別な存在とみなすことは、何人もなしえない偉大な業績を成し遂げることにもつながるが、反面、厳しい現実を余計につらく感じ、社会への適応を困難にする場合もある。
p183
文学以外にも、芸術の分野で名を成した人には、愛着障害を抱えていたというケースが非常に多い。ある意味、そこからくる「欠落」を心のなかに抱えていなければ、直接に生産に付与するわけでもない創作という行為に取りつかれ、人生の多くを費やしたりはしないだろう。書いても書いても癒やし尽くされない心の空洞があってこそ、作品を生み出し続けることができるのだ。
p184
しかし親という安全基地は、しばしばその人を縛りつけてしまう。そこが安全であるがゆえに、あるいは、親に愛着するがゆえに、親の期待や庇護という「限界」にとらわれてしまうことも多い。そして、親が設定した「常識」や「価値観」にがんじがらめにされ、常識的な限界を超えにくいのである。/ところが、愛着が不安定で、安全基地をもたない場合には、そこに縛られることがないので、まったく常識を超えた目で社会を見たり、物事を感じたり、発想することができやすい。これが、独創性という点で、大きな強みを生むのである。
p185
想像とは、ある意味、旧来の価値観の破壊である。
p186
彼らの創造的な人生の原点にあるのは、既成の価値観を否定し、そこから自由になろうとしたことである。彼らにそれができたのは、彼らが内部に不安定な空虚を抱え、常識的な行動によっては満たされないものがあったからだ。そして、その源をさかのぼれば、愛着の傷ということに行きつくだろう。それが、彼らを社会的な常識から解放し、新しい価値を手に入れる旅へと駆り立てたのである。
p194
不安型の人は、仕事においても愛着と関連した行動が多く、そのことに大きな関心とエネルギーが割かれる。仕事上の成功、失敗は、単に仕事の問題ではなく、それによって自分が受けいれられるか、拒否されるかという対人関係の問題にすり替わりやすい。そのため、肝心な仕事自体がおろそかになることも起きる。
p238
漱石は、自分のことを表現するのが、とても不器用だった。それゆえ、文学作品という、体裁をとって、間接的に自分の傷ついた心を表そうとしたとも言える。漱石の昨日は、いかに自分の正体を見破られないよう隠蔽しつつ、かつ自分を表現するかという2つの相反する要求のバランスの上に成り立っていた。
p243
驚くべきことだが、この部分に大きな資格が生じていることが、ずっと見過ごされてきたのである。
p258
何が起きているのかを説明し、ボタンの掛け違いを気づかせる第三者が必要になる。
p264
手近に安全基地となる存在をまったくもたないという人もいるだろう。そうした人にとって、本やネットの世界が、仮の安全基地となっているということも多い。自分を表現し、それに対して応答してもらえるブログやチャットは、安全基地となる要素を備えている。ただ、そこで傷つけられるという危険も抱えている。
p265
愛着不安の強い人は、一度に何もかも話さずにはいられないような衝動に駆られ、性急な告白をしてしまいがちである。しかし、それは自分の恥部だけを相手に見せるようなもので、相手を面食らわせ、対等な関係を築くのを妨げてしまう。
p271
愛着不安を抱えているにせよ、それを愛着回避によって守っているにせよ、愛着障害の人は、「自分が他人から受けいれてもらえる」と信じることができない。自分のようなものは誰にも愛してはもらえないだろう。自分のことさえ嫌っている自分など嫌われて当然だという、根源的な自己否定を抱えやすいのである。
p276
愛着障害を抱えた人は、回復していく過程で、子ども心を取り戻すという段階を経験する。
p284
書くという行為は、ある意味、愛着障害の自己治癒の試みと言えるかもしれない。
p287
親に対して否定的な否定的な見方や感情を持つことは、親が自分に対して否定的であったということの反映であり、それは、自ら自分を否定するということに結びついている。
p289
過去の否定的な体験を、恨みや仕返しという形で引きずるのではなく、前向きに乗り越えるということが、その人の人生に肯定的な意味を与え、真に幸福なものにするのに役立つように思える。
p295
役割をもつこと、仕事をもつこと、親となって子どもをもつことは、その意味で、どれも愛着障害を乗り越えていくきっかけとなり得るのである。どんなに愛着回避が強く、人付き合いが苦手な人も、必要に駆られて関わりをもつようになれば、対人スキルが向上するとともに、人と一緒に何かをする楽しさも体験するようになるものである。
p299
「自分が自分の親になる」という考えは、愛着の苦しみを知らない人には、突飛なものに思えるだろう。しかし、親に認められないことで苦しんできた人、安全基地をもたない人には、心に訴えるものがあるはずだ。
p305
効率的な社会において、人間の根幹である愛着というベースが切り崩されることによって、社会の絆が崩壊するだけでなく、個々の人間も生きていくのに困難を抱えやすくなっているということなのである。