p12
本を読もうとするときに、それが自分が死ぬまでに読める残り何冊の1冊たるに値する本であるかどうかを頭の中で吟味してから読むべきである。

p14
速読に必要なのは、ひとえに精神の集中である。それ以外に何の訓練もいらない。

p14
最初に速読を求めてはならない。速読は結果である。

p26
この記事は必要か、重要かなどという価値判断は一切抜きにして、ロッキード事件のロの字でもあれば、とにかく切り抜いて貼らせた。

p27
はじめてのスクラップは単純時系列スクラップ。次にスクラップは、価値評価を加えて取捨選択した後に内容別に分類したものだ。スクラップにかぎらず、大量の資料を扱うときには、こういう二重の整理をしておくとよい。後者があれば前者は必要ないような気がするかもしれないが、そうではない。すべてを包括した単純時系列(資料によっては別に時系列でなくともよい。要するに単純かつシークェンシャルであればよい)ものは、いわば資料のマスターテープのようなものである。これさえキチンとしていれば、後々その資料をいかようにでも活用することができる。新しい必要に応じて、どんなものでもたやすく検索することができる。

p39
瞬間的想起のくり返しがあらゆる記憶術の要諦(ようてい)だからである。

p43
“パラダイム” の変更ができるのではないかと考えることだ。必ずしも現実にそれが変えられなくともよい。変えられないものだろうかと考えることが重要なのである。

pp50-51
せっかく買った雑誌を読まないなんてもったいなどとは、決して思わないことだ。読む価値がないものを読んで時間を浪費するほうがはるかにもったいない。

p52
個人的情報整理で常に心がけておくべきことは、他人が利用する場合の便など一切考えずに、これは 100 パーセント自分専用であるという大前提をたてて、可能な限り手間をはぶき、可能なかぎり自分に利用しやすい工夫をこらすことである。百人一首で一対一の対戦をするときには、お互いに相手の取りやすさなどまったく考えず、自分だけが早く取れるように工夫をこらして取札をならべる。あれと同じことである。

p56
私がたびたびこういうことをくり返すのは、資料整理というものが、一種の底なしの泥沼で、いつでも足が抜けるように常に気をつけていないと、どんどん深みに引きずり込まれ、全身泥の中に没してしまうおそれがあるからだ。

p90
予備知識なしで取材をするわけにはいかない。

p97
入門書をつづけて何冊か読むことが、その世界に入っていくための最良のトレーニングになる。よくわからないところはとばしてよいからどんどん読みすすむ。この段階では、わからないところをわかろうと努力して考え込むことはしないほうがよい。入門書で出てきたわからないことというのは、たいてい著者の説明不足から起きていることであって、別の入門書を読むか、中級書を読めばすぐにわかることがほとんどなのである。

p97
一般に本を読んでいてわからないことに出会ったら、すぐに自分の頭の悪さに責を帰さないで、著者の頭が悪いか、著者の説明の仕方が悪いのではないかと疑ってみることがだいじである。事実そうである場合が非常に多い。

p98
1冊の入門書を3回くり返して読むより、3冊の入門書を1回ずつ読んだほうが3倍は役に立つ。

p99
ときどき、初級書、中級書を読んだだけで、いっぱしの専門家はだしの顔をしている人がいるが、そういう人はいずれ大火傷(やけど)することになる。どんな領域でも、プロとアマの間には軽々には越えられない山があり谷がある。プロをバカにしてはいけない。

p100
読む順序は入門書からというのが順当だが、それにあきたら、何でもよいから別の本を手に取り、一度に5冊も6冊も並行して読みすすめることはいっこうにさしつかえない。一本道をいかずに、囲碁と同じく、あっちを攻めたりこっちを攻めたりしているうちに、はじめに攻めあぐねていたところを何でもなく攻落できるということがよくあるものだ。

p101
ノートを取って1冊の本を読むことで頭に残ったものと、ノートなしで5冊の本を読んで頭に残ったものとを比較してどちらが豊かかを考えてみれば、文句なく後者である。

p110
どんなものを読む場合でも、それは資料の裏づけがある客観的記述なのか、それとも、著者の主観的意見や思い込みが書かれているだけなのかをまず吟味する。

p125
安易な問い方をし、それに安易に答え、その安易な答えに満足して問答を終るという最近のテレビ・インタビュー的風潮に私は反発しているので、いいかげんな質問者にはわざと意地悪く質問を返し続けることがよくある。

p125
人にものを問うということを、あまり安易に考えてはいけない。人にものを問うときには、必ず、そのことについて自分も問われているのである。質問を投げ返されたときに、「問うことは問われること」という二重構造がはっきり表に出てくる。

p132
どうすればよい質問ができるかというと、一に準備、二に想像力である。

p133
伝聞ないし推測にすぎないものを、あたかも直接体験であるかのごとく見せかけて語っている場合もある。

p133
悪意で嘘をつく人は世の中にあまりいないが、無意識の、あるいは成りゆき上の嘘をついてしまう人はたくさんいる。

p138
日常言語の世界においては、論理学的厳密さで論理を追うなどというバカげたことをする必要はない。

p138
論理のスキップか論理の欠如かは、論理的想像力が欠けた人にはなかなか見分けがつかない。前者であれば省略話法だが、後者は悪意なら詭弁、善意なら誤謬である。両者は厳密に区別されねばならないが、それがそう簡単ではない。口がうまい人がたやすく人をまるめこむことができるのは、巧みに前者と後者をスリかえるからである。政治家は特にこれがうまい。

p141
“丁重にズバリ” がいちばんよい。

p142
つい知ったかぶりになって合づちを打ってしまったりするものである。しかしこれは後で困ったことになるのだから、恥ずかしくても、後で自分で調べようなどと思わずに、わからないことはわからないといってその場で聞くのがよい。それにそういう部分を問いただしてみると、意外に話が面白い方向に発展したりということがよくある。知ったかぶりは、そういう発展性を殺してしまうのである。

p142
それに実は、知ったかぶりは相手に見抜かれていることが多いのだ。おや、この人はいろいろ知っているような顔をしてあれこれ聞くが、ほんとは何も知らないらしい、と思われたら、もうそれ以上ろくなことは聞きだせない。

p142
補充取材は面倒くさがらずに何度もするとよい。

p147
こと知的生産に関して書かれている本は、もっぱら、インプットとアウトプットの技術論で、「の間」に関して書かれたものはまずない。

p149
待っても何も出てこなかったら、それで終わりである。無理に頭をふりしぼって、何かしゃべったり書いたりすることもあるまい。貧しい頭を持って生まれた我が身の不幸を心ひそかに嘆くにとどめて沈黙を守るのが一番よい。頭の中から自ずから出てくるものが何もないのに、無理して頭から何かひねり出しても、いわなかったがましのようなことがことしかいえないのがオチである。

p151
これ[KJ法]が利点となるのは、頭が鈍い人が集団で考えるときだけである。

p151
考えるというような複雑かつ高度な精神活動を多数の人が歩調を合わせてやるなどということが、スムーズにいくわけがない。皆で足を引っ張りあう結果に終ることが必定である。

pp156-157
良い文章が書けるようになりたければ、できるだけ良い文章を、できるだけたくさん読むことである。それ以外に王道はない。

p158
文章の本質的価値は、いかに書かれているかより、何が書かれているかにあるのだということの証明である。

p164
誰でも自分の方法論を発見しなければならない。

p170
知的作業には、いつでもその人の全存在がかけられている。その人がそれまでに蓄積してきたすべてのものが材料となるのだ。その中から何を取捨選択するかによって、できあがるものはまったくちがってくる。

p200
文体は個性である。どこかで読んだようなスタイルの文章しか書けない人は、個性をいまだ確立していないか、個性を喪失してしまっているかのどちらかであろう。

p204
文章の場合は、読者への媚びは簡単に見透かされてしまい、媚びの効果がないばかりか、侮蔑(ぶべつ)されるのがオチである。

p204
自分の文章を客観的に読む能力を身につけることが必要である。

p206
削りと書き足しはまったく別の目的のためになされる。削りは量的削減、書き足しは質的向上が目的である。質の水準を変えずに削ることは可能なのだから、質的向上が求められる余地があるなら、まず、その作業を先にすべきなのである。可能なかぎり質を上げておいてから、可能なかぎり質を下げないようにして量を減らしていくわけだ。

p208
難解な文章の筆者は責められるべきなのであって、褒められるべきではない。

p223
プロの取材者にとっては、三次情報含めそれ以下の情報源は、ほとんど取材に値しないといってよい。

p230
ジャーナリズムの本来のあり方は、やはり、ファクトそのものの追求にあるはずである。