[読書メモ][Kindle]『「考える子ども」の育てかた』
日本の現体制下では、何か特別な技能なり才能を持っていることが自立への近道に違いない。
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子どもの適性を考慮しないで、男の子だから慶応の経済へ行けとか、成績がいいんだから東大へ行けだとか、先入観や世間体にとらわれるのは、子どもにとってあまり感心しない親だと思います。
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こんなに楽しい子育てを、世の多くの父親はなぜしようとしないのか、これが私には不思議でしょうがない。ただ、同情すべき点は、会社勤めの父親たちは、時間と労力の大半を企業に吸い取られてしまっているということがある。
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子どもにとって母親の話というのは多くのばあい身の回りのことや、こまごまとした注意なんかが主で、大体あまり面白くないものですが、父親の話は、もっと世界が広くてどこか面白いところがあるという一般的傾向がありましょう。
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小さい時代にストレスのない状態が十分に存在している場合、子どもは多少の冒険をしても、家に帰ればお母さんやお父さんが優しく癒やしてくれるという安心感を持ちます。ケガをすれば手当てしてくれる、泣いていれば慰めてくれる、おなかがすいたら食べさせてくれる。家に帰れば自分はすべて許される、と親のバックアップが保障されていれば、子どもは外の世界へ自然と意識が向いていくものです。
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私は絶対的非暴力主義です。暴力によって何かができるということは決してありません。
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世の中すべてがそうであっても、自分はそれに流されない、つまり、独自の美学を持つということです。
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プレゼントはするのもされるのも私は嫌いです。
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そもそも日本人は昨今、プレゼントをしすぎるのです。
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私自身は読書というものを子どもに強制したことがありません。強制された読書は読書ではないと信じるからです。/読書は、徹頭徹尾、自発の営為でなければなんにもならないと思っています。
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女子で、慶応に中等部から入るのは、魔法の絨毯なしに空を飛ぶよりも難しいと言われています。
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まあ、ご先祖様のご加護か何かあったのかもしれない。
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公立中学という絶対的なすべり止めがあるというのが中学受験のメリット
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一にも二にも子育ては「観察」です。
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観察が観察として意味を持つためには、長い時間の継続が必要です。
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[ゲームは]たとえば「一時間だけね」などと約束させたところで、そもそも思考停止してしまっているのだから、一時的のところで中止できるはずもない。
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とにかくファミコン、あるいは酒、ないしは賭け事等々、人間の理性を麻痺させるようなことは一切私は認めない。
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私にしてみれば、娘がどういう人を好きになろうと自由です。/私は娘にいつも勧めています。どんどん恋愛しなさい。男と旅行するのも大いに結構。相手に妻子があろうと、ジジイだろうとなんだろうとかまわないと言っているんです。恋はないよりあったほうがいい。そのほうがどうしたって豊かな人生だと私は思う。
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いつも醒めた目で、冷徹に客観的合理的にものを見ている。しかし、そういうものの見方、外界との接し方は、これから自立して生きていく上で、じつはとても大切なことなのではないでしょうか。
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校則でカチカチに縛り上げて、生徒たちが身動きできないようにして、それで「よい子」に育てるなんて方針の学校は、どうも眉唾ものだと思います。
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私は、文部官僚ずれが言う「しつけ教育の徹底」とか「道徳教育」なんてのを聞くと、いやーな気がします。頭ごなしに一定の画一的規範を押しつけたりするのは、ファシズムに通じる道という感じがするからです。
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いい意味のわがままは人間の魅力の一つというのが私たち夫婦の信念です。
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わがまま大いに結構。わがままは魅力なのです。
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ところが、そこでアルバイトをしてしまったら、それはどういうことになりましょうか。せっかく親が買った時間を、子どもはまた細切れにしてファミレスやらコンビニやらの業者に売り渡してしまうことになるわけです。
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ただ単なる金稼ぎとしてコンビニやファミレスで働くというのは、時間の浪費です。将来の自立のためにほとんどなんの意味もありません。
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私は娘にボーイフレンドができるのをいやがる父親の気持ちなんぞは全然理解できません。大人になった娘が恋をするのはよいことだし、恋をする上からは、ボーイフレンドと旅行にでもなんにでも行けと言っているんです。
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何か会社のグチばかり言って、日々飲んだくれているつまらない父親を見たら、なんだ、と思うじゃないですか。
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息子としては、なんとかして父親を越えなければならないと無意識に思っているらしいところが感じられます。/ところが、私も日々努力して進歩しようとしているので、これを後から追っかけてきて越えていくのは容易ではありません。
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孤立といっても、決して孤独なのではありません。/誰とも必要以上にべたべたとひっつかない、自分の生き方を誰か他の人に預けてしまったり、凭(もた)れかかったり、みんなで手をつないでなんでも一緒にしないと気が済まなかったり、要するにそういう独立を見失った形での人生を容認しまいという心がけであります。
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私は、今まで、仕事をやっていく中で、常にこの『名誉ある孤立』を保つように心がけてきました。そのため、ある時は人付き合いが悪いといって叱られ、ある時は生意気だと貶(おとし)められ、ある時は偏屈だと陰口をたたかれ、要するに日本のようなべとべとの村落共同体的社会では、その共同体の外に立って独自の価値観を保持しているような生き方は、どうしても必要以上にたたかれることが避けられませんでした。/しかし、それがどうした、と私は思います。/孤独がこわくて、尊敬もできる人間にへつらったり、いやだなと思っているような団体に顔を出したり、そういうことは一切せぬように心してきました。
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会社勤めの人には「転勤」というものがついて回ります。それはじつのところ家庭への不当な圧力として作用します。転勤について引っ越して回る家族も大変ですが、といって単身赴任などというのも著しく人権を侵害したやり方です。/いや、そもそも転勤なんて制度を反省もなく続けているという社会の構造、そこに問題があります。これは、男は外で働き、家は女が守る、ということを前提として成り立っている旧弊な考え方です。
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日本は団体主義の社会ですから、意識して「名誉ある孤立を守る」と、自分に言い聞かせないと、流されてしまうところがあります。
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私とその家族は、近所のどなたとも個人的お付き合いをしません。
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こうした子どもの「個」を認めていない父親に限って、たとえば娘の結婚式でみっともなく泣くなんてことがある。結婚式で父親が泣くなんてことは美談でもなんでもありません。あれは単なる父親の不見識に過ぎない、と私がごく冷淡に突き放して見ています。
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結婚したって世界のどこかで元気にやっていれば、親としては大いに嬉しいというだけのことで、育ててやったことについて恩返しをしてほしいとも思わないし、親孝行してもらいたいなどと毫(ごう)も思ったことがない。
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子どもが何か志を立てて、やってみたいと言ったときに、「よし、やりなさい。がんばれよ。経済的なことは何も心配しなくていいからな」と言ってやれるだけの覚悟が、親にあるかどうかです。
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子どもには自己実現の権利があります。それを妨げる権利は親にない。
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林の家には、ひとつの不文律のようなものがあります。それは「親子は同じ道を行かない」ということです。親子代々、二代目三代目なんていうような安易な道をとっていては、結局縮小再生産で、三代目にはごく小粒なものになってしまうし、だいいち、つまらない。
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子どもたちが育っていく家庭で、常に父親の勉強している姿を家の中で見ていたということがあると、知らず知らずに勉強する人生、一人でこつこつ努力する人生というものが、脳の奥深くに刷り込まれて、彼らの人生の指針になっていくのかもしれません。
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親が真剣に勉強している姿を見ながら育つと、子どもは人生とはそういうものだと、いつしか思うようになるのでありましょう。
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考えてみれば、一昔前までは、とにかく、一流大学でも出て有名企業に入ったらそれで親の仕事はおしまい、あとは社会人として子どもたちも一生安泰であろうと、高をくくっていればよかった。のんきなものでした。
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制度上の差別をなくすなんてことは、まだ初歩的な段階で、問題は、一見差別とは見えないような日常の襞々(ひだひだ)に隠れている悪質で微妙な差別意識を総精算しなくてはいけないことです。
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私は酒も煙草も、ゴルフも賭け事も、悪所通いも、一切しない人間です。そういう男どもの拠って立つ世界が、ともかく不愉快でしょうがない。
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たとえば、独身時代からある程度物など書いてきた人が、子育ての時期は休業状態になったとしても、復帰しようと思ったときに、十年、十五年の子育ての経験が、どれほどものを言うか。小説家でもずいぶん説得力の違う物が書けやしまいかということです。
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大切なのは勉強して偉くなることだ
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特に強調しておきたいのは、親が子どものために投じた労力、時間、努力、お金、これらのすべては一行通行で、どうでも返してもらうには及ばないという、この一事です。