[読書メモ][Kindle]『日本語へそまがり講義』
漢字なぞは、振り仮名を付けておけば、放っておいても、読めるようになるのだ。
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書道というような芸術方面はさておき、一般的に言えば「きれいに正確に書くこと」よりも、「速く書くこと」のほうが百倍も千倍も大切である。/女子大の先生をしていて、イライラさせられたことは女子学生たちの文字を書くスピードがあまりにも遅いことだった。中には、いちいち定規を当てながらほとんど神経症的に丁寧な文字をノートに書く女子学生さえあった。
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こういった「丁寧に字を書く」ということについての教育的な圧力は明らかに男子よりも女子に対してのほうが強い。それは「女の嗜(たしな)み」として「美しい字を書く」ということを求めた女学校的旧習のなごりであるが、そのことは本論の趣旨とはやや別の問題なので、ここではこれ以上深入りはしない。ただ、そういうことにさえ、「性差別」があるのだということを指摘するに留めたい。
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美しい、正確な字などは、男女ともワープロに書かせておけばよい。人はワープロに出来ないこと、つまり文章を考える、論理を組み立てるというような創造的方向にもっと集中すべきなのだ。それが本当の「情報化」の時代なのだ。
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文章というものは、作者のものである以上に、まずは読者のものでもある(読者のいない文章などは存在する意味がない)。
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私たちの日本語のなかに混在する漢語は、どう読むかを知らなくとも、その「意味」を直接に「読む」ことができる、という珍しい性格を備えていることが分かる。
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一人で鍋をつつくというのは、いかにも密かに悪事をなす嫌いがあって、どこか気が咎(とが)めるのであろう。
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そもそも「飲食する」という動作に対しては、日本語には、古今頗(すこぶ)る多様な表現があった。/それはどうしてかというと、なにかを飲食するという行為が、すなわち、人と人とのコミュニケーションのメディアとして用いられてきた経緯があるからである。
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こうして、「ことば」というものを、なんとかして「客体的」に捉えて固定化しようとすると、なにしろ「ことば」は物体ではなくて、単なる「現象」に過ぎないのだから、たちまちその当てた物差しのはざまからこぼれ出て、嘲(あざ)り笑うようにどこかへ飛んでいってしまうだろう。
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「ことば」は、かくのごとく掴みどころなく、曖昧で、常に動いている、そういう雲のような存在なのである。
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もっと各人が自分自身の「ことば」に自覚的になって、注意深く言葉を発したい、ということである。