「子どもを作れ」「2人目を作れ」と言ってはいけない
子どもが生まれて1週間。以前は子どもはいらないと思っていたけれど、実際にできてみるとこんなに素晴らしいことはないと思う毎日を過ごしている。私は普段から無駄を排除し、コスパを求め、自己を高めることばかりに注力してしまうが、純粋に「子どもがいる幸せ」というものを味わう自分を発見した。
子どもがいることは素晴らしいことだ。このことは自己の体験から、あるいは感覚的に、多くの人がそれに同意するだろう。でも、逆にそのことで「見えなくなっていること」があると思うんだ。
よくあるのが新婚夫婦に対して「子どもを作りなさい」と言うこと。うちの父親も言っていた。うちの弟や妹の結婚式でも同じように「子どもを作れ」というプレッシャーを掛けていた。嫌な親だよ。今の時代、さまざまなライフスタイルがあることは知られている。なぜ結婚したら即「子どもを作れ」という思考回路になるのだろうか。子どもを作らないのも立派な選択だ。各家庭に事情はあるし、それぞれに考え方がある。一律に決めつけるのが無神経なのだ。
さらに、子どもを作りたくても作れない人だっている。そういう人にとって「子どもを作れ」と言われることはどれだけ傷付くことか。
先日病院に子どもを見に来たあるおばあさんが「2人目も作ろうね」などと言ってきた。「きょうだいがいると子どもは楽しいよ」だって。言われてすごく嫌だった。きょうだいがいなくて、何が問題なのか。
私が最初子どもを作りたくないと思っていた理由の一つが、そういう圧力を掛けてくる人に対して「だったら、絶対子どもなんて作らない」と逆に反抗したかったからだ。そういう声を無視できるようになって、自然と(だと信じているけど)「子どもがいてもいいかな」と思ったから子どもを作る気になったわけ。
要するに「余計なお節介はするな」ということだ。そしてこれは、もっと根本的な問題として「幸せとは何か」という問題に行き着く。
私は 10 年ほど前に読んだ『不幸な国の幸福論』(加賀 乙彦、集英社新書、集英社)に大きく影響を受けた。この本の主張は「幸せが一通りだと考えるから不幸になる。幸せは自分で定義しよう」だ。シンプルだけどすごく心に響いたんだ。
「いい大学を出て、いい会社に入って、結婚して、子どもを作って、一戸建ての家を持って・・・とするのが、幸せ。それから少しでも外れると不幸」なんて考えると、ちょっとでもそのレールから外れたら「自分は幸せではない」と自己嫌悪に陥る。それほど極端ではなくても、「子どもを作れ」と人に言うのも同じ<不幸者の論理>だ。私が会社を辞めるときだって、親や周りにガタガタ言われた。会社だって辞めたければ辞めればいい。自分にとって会社を辞めることが幸せへの道になると思ったんだから。そして実際に今はサラリーマン時代とは比べものにならないほど豊かな生活を送っている。
幸せは自分で定義しよう。前時代の固定された幸せ観の呪縛から解放されよう。ごちゃごちゃ言ってくる連中はいつの世もいる。耳を貸してはいけない。一番いいのは距離を置くことだ。実家は出よう。テレビは捨てよう。私が日本映画を観るのが基本的に好きじゃないのは、日本的価値観に引き戻される、と思っているから。できれば海外に住みたい。自分に変な制限を付けるのはダメだ。まずは自分が過去の価値観に陥っていないかチェックしてみよう。でもそれは自分では気付かないことも多い。だから、どんどん新しいことを始めよう。