[読書メモ]『教養の力 東大駒場で学ぶこと』
p40
高次の博士号となると、分野にかかわらずすべて PhD あるいは Dphil となる。このあたりに、ヨーロッパの古い学問における序列の名残を見ることができる。
p67
人間いかに生きるべきかという問題を中心に据えた倫理的な主題を扱っている
p104
良し悪しを見極めるためには、まず優れたもの、「本物」に触れなくてはいけない
pp109-110
あるとき友人から外国文学が好きだという知り合いの中年男性を紹介され、しばし酒席で文学談義に興じたことがある。悠々自適の読書生活が許される立場にある人で、その読書量と外国文学に関する知識には舌を巻いた。どうして専門の研究者や批評家になろうとしなかったのか、不思議に思うくらいであった。/ところが、よくよく話していると、あの作家・作品はどう、この登場人物はどう、と個々の文学的事象についてはじつに豊富な知識が次から次へと披露されるのだが、それがもう一段階敷衍あるいは抽象化した議論に発展しない。作品がこうだとすると、それを書いた作家はどのような世界観を持っていると考えられるのか、あるいはそれをどう時代のほかの作品と比較した場合にどのようなことが言えるのか、といった議論は一切出てこないのである。/もちろん、そのように議論を抽象化できないなら文学作品を読む資格がないなどと言うつもりは毛頭ない。むしろ純粋に作品に没頭して、一つ一つの物語そのものを楽しむのはすばらしい趣味である。そのほうがむしろ正統的な文学の楽しみ方だとすら言える。/逆に研究者や批評家のほうが、つい何か気の利いたことを言ってやろう、書いてやろうと考える分、不純な読み方をすることがある。そしてまた、研究者や批評家のほうが教養の獲得に近い位置にいるわけでもない。/私が言いたいのは、教養的なものの代表であるかのように考えられている文学ですら、単なる知識や娯楽として受け入れるだけでは、それ以上のものに昇華することがない場合があるということである。知識を教養にするには、また別の技術が、新たな過程が必要であるらしい。
p114
そのような理知は、一歩引いたところ、あるいは一段階高いところから冷静に自分自身を観察し、それに基づいて何らかの結論なり行動規範を引き出す「メタ能力」(ここでの「メタ」は、「より高次の」の意)とも連動しているようである。
p119
読み返して恥ずかしい部分もあるほどの若書きであり、[…]私の倫理思想の原点でもある。
p134
何かを細かい単位に分けて分析的に見る視座も必要である。分析と定義は科学を進化させる。だが一方で、さまざまな価値を総合的に、ときとして直感的に判断することのできる能力も失ってはならない。
p157
いかにもディベートの本場アメリカらしい社会運動で、日本人としての私の感性からすると、そのかっちりとした二項対立にかなりの違和感を覚える。そのようなディベートをむしろ頭の中で行い、さまざまな価値を比較検討しつつ、個々の場面に応じて妥当な結論を引き出すイギリス的な「センス・オブ・プロポーション」の理念のほうが、日本人的な教養と相性がいいと私は思う。
p177
世にある多くの父子関係の例に違(たが)わず、父と私の間には微妙な緊張関係があった。