p4
「えー、国語辞典の編纂というのはですね……」/などと、10分使って説明すると、聴衆は分かったような、分からないような顔をしている。20分使って説明すると、非常に分かったような、非常に分からないような顔をする。どうも、中途半端に説明することで、かえってこの仕事に対する誤解を生んでいる気がします。

p31
ここで、辞書編纂者のとる態度は2つに分かれます。一方は、「『甘熟』ということばは辞書に載せる必要はない」というものです。「新聞や文学作品にあまり出てこないのであれば、日本語としての普遍性に欠ける。『甘熟』は、店が勝手に考え出したのだろう。辞書というものは、むずかしいことばの意味を正しく知るためのもので、俗なことばを積極的に載せる必要はない」。こうした考え方を、ここでは「規範主義」と呼んでおきましょう。/一方、「『甘熟』は辞書に必要」という態度もあります。「たしかに、新聞や文学作品のことばには少ないが、街の中には『甘熟』は厳然としてある。これもまぎれもなく日本語だ。もとはここの店の造語かもしれないが、一過性のものではなく、それなりに広がりを見せ、定着している。辞書は、『今そこにある日本語』を載せるべきである」。こうした考え方を、「実例主義」と呼んでおきましょう。

p61
またしても遠慮がちな否定の意見が出ます。

p61
ことばに結びつかない話をすると、何だかオチがないような感じがして、それこそ落ち着かないのです。

p75
青果店などでは、このように「キャ別」と書く例がしばしばあります。誤字とも言えますが、「テンプラ」(ポルトガル語)を「天ぷら」と書いたりするのと同じく、自然発生した当て字と捉えることもできます。

p84
ことばとの出会いは一期一会みたいなところがあって、一度失うと、かりに同じ週刊誌を買ってまた探そうとしても、すべてのことばに再会できるかどうかは分かりません。失って初めて、用例の貴重さが分かります。

p88
私がテレビを見る場合は、基本的にすべて録画します。ちょっと暇つぶしに見る、という時でも、必ずブルーレイレコーダーの録画スイッチを入れておきます。そうしないと、いつ何時、出演者の口から貴重なことばが漏れるか分かりません。

p96
録画すべき番組の録画は、レコーダーの中にどんどん溜まる一方です。私の日常的な悩みのひとつです。

p99
「できが悪い子どもほどかわいい」と言いますが、辞書には載せないと決めたことばも、私にとってはかわいいのです。

p141
私が内容をチェックし、修正することになります。したがって、文責は私たちにあります。

p188
平常心では読めない。

p191
辞書の語釈を書いていると、世の中には弱い立場、軽んじられた立場、ないがしろにされた立場の人が大勢いることを痛感します。

p203
『岩波』は、第6版(2000年)で横組み版を出しました。横組みというのは、左綴じで文章を横書きにした本です。となると、ページ番号の左右が、従来の縦組み版とは逆になります。

p213
現場を体験したことで、内容にいっそう自信が深まったのも事実です。

pp229-230
もっとも、『誰にでも』というのは、何も言っていないのと同じです。[・・・]『この雑誌は、どんな人に向けて編集していますか?』『そうですね、どんな人にも読んでほしいです』。こういう雑誌は売れないでしょう。『あなたは、どういう女性に好かれたいですか?』『女性なら誰でもいいです』。こういう人はもてない。国語辞典も同様です。

p263
私の机の横には、常時10冊以上の国語辞典が並べてあります。いずれも特色ある辞書であり、私にとって大事な相談相手です。