久しぶりにエキサイティングな本を読んだ。『フェイクニュースの見分け方』(烏賀陽 弘道、新潮社、2017)である。

本書は情報の見極め方についての本だ。特に 21 世紀になってからネットが多くの人にとって身近になり、誰でも簡単に情報を集められることになった。あらゆる情報に簡単にアクセスできるようになり、洪水のように情報が溢れている。しかし、だからこそ正しい情報を見極めることがますます困難になってきている。

どんなに情報が増えても、それを使う「人」に情報を見極める力がなければ意味をなさない。所詮その人の認識の範囲内でしか、情報を見つけられない。目の前にあっても見えないのだ。これについては『その検索はやめなさい』や『弱いつながり』などを読むといいだろう。

私自身ここ数ヶ月でやっと情報の見極め方が分かってきたような気がする。情報の重要度や信憑性、確からしさで<色分け>ができるようになったというか。意味のない情報は見なくて済むようになった。

ブログを書く際も Wikipedia のような誰が書いたか分からない信憑性の低い情報源へのリンクを貼るのはやめている。Google 検索でトップに表示される情報だからといって、安易に信じないようにしている。必ず誰が情報発信者なのかを確かめる。ゴミ情報は最初から見ない。我ながらリテラシーが少しずつ上がってきたと思う。これは読書の賜物かもしれない!

ちょっと前の私なら、例えば体調が悪いときに、ネットで調べてトップに出てきた誰が書いたか分からないようなブログ記事を参考にしていた。今ならそんなバカなことはしない。本で調べたり、医師の署名入りの文章を読むようにしている。そもそも、変な情報に従うぐらいならとっとと病院へ行く。

私の正しい情報を探し出す訓練の土台となったのは、大学院生時代に翻訳学校へ通っていたことも大きいと思う。翻訳では訳の根拠となる事実を「申し送り事項」で示さなければいけない。だから、情報源をリサーチすることの重要性が徹底的に叩き込まれた(そこでは「調べ物」と呼ばれていた)。翻訳学校にはいろいろと不満があったが、その訓練をさせてもらえたことは価値ある経験になった。それは修士論文を書いたり、サラリーマン時代の仕事で調査を担当したときにも役立った。

私が危機感を抱いているのは、今の子どもたちが生まれたときからそういう情報洪水の中で暮らすことが当たり前になっていることだ。それは小6の甥(おい)っ子を見ていていつも思う。例えば、分からない単語があると、彼は iPhone でググって調べるんだよ。そして広告がいっぱいのオンライン辞書なんかを読んでいたりする。Siri に「○○の意味は?」などと聞いたりもしている。そんな資本主義の原理で動いているツールを普通に使っている。ちゃんとした辞書を引かないと! Wikipedia の記事を一生懸命読んでいるときもあるが、彼は何でもすぐ覚える年頃だから、そこで得た「知識」を一生引きずることになる。そして同じことは、大人でも何も疑わずに普通にやっている。リテラシーがないというのは恐ろしいことなんだよ。情報を見極める訓練を小学生の頃から学校教育に早急に取り入れてほしい。

『フェイクニュースの見分け方』はハッとさせられることがたくさん書かれている。ぜひとも多くの人に読んでもらいたい。