pp15-16
一世一代借金して買った自分の城だから、決して人手に渡したくない、なんて封建地主的な価値観に囚われていたら、それは自由な人生とはいえないでしょう。

p17
いまだに、日本では田舎暮らしをするとき大切なことは、近所の人と折り合いよくすることだなんて言われている。「田舎暮らしの秘訣」なんていう本を読むと、村祭りには進んで協力しましょうなんてことが書いてある。私自身は、田園に暮らしたい気持ちは人一倍だけれど、それはイギリス的な意味においてであって、自分が、田舎の農村ソサエテイに所属したいということでは全くありません。いや、そんなの、煩わしくてイヤなこったと思います。私は東京でも孤立して住んでいますし、仮に田園生活をするにしても、イギリス人のように孤立して住みたい。

p24
だから、日本のように、家を借りるのに敷金ニカ月、礼金ニカ月、前家賃一カ月、全部で五カ月分の前払いが必要だなんてそんなバカな話はないと思います。もちろん礼金などというものは、本来法律で禁じるべきものです。あれは戦後間もなく借家が不足していた時に、大家が貸し手市場で勝手にとったのを、いまだにやってるわけで、戦前にはそんな不当な金を取ったりはしなかった。まったく理由のない金ですからね。どうして、大家に「お礼」の金をやらなくちやならないんです。おかしいでしょう、それ。

p35
都市に住んでいても、本来その脳みその構造が「農民」だからです。農民は日当たりが悪ければ死活問題だから、どうしたってそういうところにこだわる。が、そのこだわりは都市住民の意識としてはいかがなものかと、思わぎるを得ない。こういう考え方は、そろそろ清算したほうがいいと、私は強く思います。

p46
借家というものは、あくまでも借り物だから、住人も調和を乱すようなことはしない。さらに借家式の造り方というのがあって、間取りも似たようなものだから、戦前の東京の町並みは、かなり調和のとれた景観だったはずです。

p53
ま、東京人はどこまで行っても「上京人」であって、ほんとうの意味での都会人とはなれなかった、というのが本当のところかもしれません。

p63
ただ、自分にとってどういう生活がしたいかなと思いをはせると、冬は暖房、夏は冷房のなかで過ごすという生活ではなく、できるだけ自然に近い静かな暮らしをしたい。たとえば、沖縄ならば、夏だけは冷房が必要ですが、秋から春は冷暖房なしでも暮らせます。あるいは八戸ならば、冬だけは暖房をしますが、春から秋は冷暖房なしでも暮らせます。[…]都会生活というのは、こういう観点からみると、どうもあまり褒められない。夏は冷房、冬は暖房のしどおしになり、それが結局エネルギーの消費、ひいては地球環境の破壊にも繋がっていきます

p88
じつは、日本人は昔から新しもの好きだった。これはたぶん神様の観念と関係があるのではないかと見ています。/日本の神様は、ともかく新しいもの、汚れなきものがお好みで、古い汚れたものはお嫌いになる。たとえば、日本の神様の総元締めは、天照大神を祀っている伊勢神宮でしょうけれど、ここでは二十年に一度、式年遷宮と称して、つねに新しく建て替えるしきたりです。/伊勢神宮だけでなく、春日大社も明治時代までは式年遷宮を行っていました。江戸時代の本を見ると二十一年目に行うとあったので、春日大社も昔のままの姿ではなく、壊しては、新しく生まれ変わってきた。最近では、本殿が国宝に指定されたので、取り壊すことができないけれど、かたちだけ修理をするというやり方で、二十年に一度、式年遷宮を行っています。

p90
現在のように、西洋の「デザインだけ」を真似て家を造り、取り壊してはどんどん捨てるということでは、この狭い国はたちまち廃棄物でいっぱいになってしまいます。

p91
それでも、日本人は、おおく「古い家を取り壊して、一度は自ら新しい家を建てたい」と思うだろう。家にはつねに、オレが建てた家だ、男子一生の家だという意識が投影されるからです。この「一国一城の主」的観念が日本人の心の中に深く根づいています。

p92
だからこそ、もういちどここで、果たして膨大な借金をしてまで自分が住みたい家があるのだろうかという根本から考える必要がある。

p106
けれども、いろいろな人の書斎をみて回ったら、取材だとか撮影だとかいえば、だいたいは皆、かなり一生懸命片づけていることが分かった。やはり、ものを書く時というのは、いかに雑然とした中で戦うかということになってくるのが道理で、普段はどうしたって散らかっているのです。/私の家も、夫婦と子ども二人の四人家族ですが、皆それぞれが散らかしていて、一人も片づける人がいない。そうすると家中がめちゃくちゃになり、いよいよどうしようもなくなると、盛大に捨てたりして、やや秩序を取り戻すなんてことの繰り返しです。

p111
引き戸ではなく、ダブルハングという引き上げ窓

p117
木造ならば、桂離宮のように、いくらでも自由に増改築ができます。窓だったところを壁にしたり、屋根の一部分を壊してまた別の屋根をつけたり、一階建てを三階建てにするといったように、本当におもしろいぐらいに簡単に変えられます。

p132
最近の建築工法では、グラスウォールといって、ガラス自体が外壁材になっていることが多い。

p161
カウンターキッチンを造って、居間にいる人達と一体化しようとしても、妻が洗い物をして、夫は居間でふん反り返ってナイターを見ているとしたら、双方、だんだんイライラしてくるはずです。妻は手伝いもせずにテレビを見ている夫に不満を持つだろうし、一方の夫も、すぐそこでジャージヤーと水音高く洗いものなんかされたら、はっきり言って邪魔だ、うるさいなあと思うに違いない。このように、居間を大きくとって、片隅に厨房をとるという従来の間取りにもそれなりの欠点があります。

pp174-175
『書斎の造りかた』でも績々説いてきたように、私は、夫婦のベッドルーム以外に(寝室も夫婦別室にしたほうがいいけれど)、夫と妻はぜひ別々の個的空間をもつべきだと思っています。現代の夫婦は多くそれぞれがキャリアを持っています。とすれば、個人としてそれぞれの世界がある筈であって、夫婦だからとて、一心同体なんてのは幻想であるに決まっています。とするなら、たがいに個室をもったほうがすなわち合理的だということです。

p177
けれどもね、別に同じ部屋に寝ていなくても、たがいの部屋を、通い合えばいいだけのことです。なにも百キロの彼方にいるわけじゃない。

p181
私は、その種類の学習机というものを、ついに子供に買い与えませんでした。実際に勉強をずっとしてきた立場からいうと、やたらと仕切りがあって、物入れやフックなどがあるような机では、勉強に集中できない。学習机とはいうものの、実はちっとも学習には合理的でないのです。/何もない広々とした空間があれば、子供もそこに集中して自分のやりたいことを自由にできる。絵も描けるし、文章も書けるし、本も読める。あんなふうにゴタゴタいろんなものがついたり囲われたりしていると、その自由が制約されてしまう。

p188
しかし、人の家に泊まる、人を家に泊めるということは、あくまでも村社会的発想です。どこかに出かける場合、あそこに親類がいるから泊めてもらおう、というような思考法は、じつは都市的発想ではありません。それは田舎の共同体的発想を根底にもった生き方です。

p196
もうひとつだけ、何よりも強く訴え続けていることがあります。それは、「洗濯物を外に干すな」ということです。

p198
またそれを干したら最後、雨が降らないだろうかと心配だろうし、おちおちと出かけることもできません。こんなつまらない家事労働が、妻達を家に縛りつける作用を果たしてきた、と、私はそこを見逃すことができないのです。

p207
結局こういうことも、すべて一から考え直し、固定観念を排して発想の転換をする必要があるのです。世の中はすべからく構造改革の時代ではありませんか。